第33話 『未来へ』


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――二月下旬。

あれから次に病院から連絡が来たのは、数年に一度の寒波が到来した、二月下旬の寒い日だった。沙希の容態が急変したらしい。俺はその連絡を受けて、涼介と華と一緒に、急いで中央記念病院に向かっている。
「篤、沙希の容態は、何だって?」
涼介が俺に聞いた。
「それが、病院でお話ししますの一点張りで。とにかく病院へ急ごう!」
「沙希、大丈夫かな。心配・・・。」
華は震えた声で言った。涼介の運転する車に乗って、病院へ向かう。高速を使って来たので、東京からは約一時間で到着した。駐車場に車を止めて、急いで病室へ向かった。病院のエントランスをくぐる。会計の奥のエレベーターに乗り込み、五階へと向かった。エレベーターの中では、誰も口を開かない。みんな俺みたいに、先生にこれから何を言われるのかと、思いを巡らせているに違いない。

「失礼します!」
涼介が先陣を切った。
「みんなっ。」
沙希は目を見開いた。華は沙希に抱きついた。
「沙希、ずっと会いたかったよっ。」
涼介も沙希の近くに寄る。
「大丈夫か?」
俺は一歩離れたところから、その様子を見ていた。沙希が微笑みながら俺に視線を送る。俺も作り笑いを返した。そして、俺は沙希に言った。
「昨日、病院から電話があってさ、すぐに病院に来てくださいって言われて。慌てて、飛んできた。容態が急変したって。」
「ううん、そうね。詳しいことは、先生から説明してもらうわ。みんなにも聞いて欲しくて。」
沙希がそういうと、看護士を連れて、先生が部屋に入ってきた。その手には、沙希のカルテらしきものを持っている。
「山村さん、みなさん、もうお揃いですか?」
「はい、お願いします。」
沙希がそういうと、先生は話し始めた。
「私は、主治医の山本です。今日、手術をするにあたって、山村さんから、みなさんに病状を説明して欲しいと言われまして。それで、ここに呼んだ次第です。」
俺ら三人は顔を見合わせた。手術?今日?何のことだ?そんなに悪くなってしまったのか?案の定、俺のカンは的中する。
「山村さんの右目は、現在全体の二分の一が黒い影で覆われている状態です。この黒い影の正体はガン。この病巣の肥大を抑えるために、今日まで放射線治療を続けてきました。そして、昨日、定期的に行っている精密検査を実施したところ、ある事実が判明しました。」
ゴクンと唾を飲む。先生は、淡々と続けた。
「その事実とは、両目を侵していたガンの病巣が、他の場所にも転移していました。その場所は食道です。ガンで一番怖いのは転移です。目のガンの場合、国内でも症例が非常に少ないので、どこにガンが転移するか、予測が出来ませんでした。このまま手術せずに放置したら、余命は、持って半年~一年でしょう。手術をしたら、その余命をさらに伸ばすことができますが、今のように自由に身体を動かすことは、もう出来なくなってしまうでしょう。」
沙希は、窓の外の桜の木をじっと眺めていた。まるで他人事のようだ。
「ただ、唯一、そうならない方法があります。左目と右目のガンの病巣を切除し、さらに、転移しているところの病巣を、手術で取りきることです。こうやって聞くと、簡単なように思えますが、実際ガンの病巣がどれくらいかは、正直メスを入れてみないとわかりません。この手術を行うと、沙希さんは、両目の光を失うことになります。また、手術は時間との戦いです。私たち医師が病巣を全て取りきるのが先か、沙希さんの体力が尽きてしまうのが先か。病巣の大きさによりますので、こればかりは、やってみなければわかりません。」
先生は、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「手術の成功率は、前者は七十五%、後者は五%くらいです。普通は延命のための手術をして、治療を継続するために前者を選択しますが、沙希さんの強い希望により、後者の手術をすることになりました。」
俺らは沙希を見た。覚悟を決めた表情で、いまだ桜の木を見つめていた。成功率五%。『失敗』、それはすなわち、死を意味する。沙希はあくまでも完治を目指しているのか。そんな無謀な賭けに挑むのは、沙希らしい。
「五%・・・ですか?」
涼介はボソボソと呟く。華は涼介の胸の中で泣いている。
「私たち医師は、最善を尽くします。」
先生は、真っ直ぐな目をして言った。そして、沙希の病室を後にした。部屋には、俺と沙希、涼介と華だけになった。
「沙希、なんで相談してくれなかったの?よりによって、今日だなんで。」
今日まで隠していたのは、沙希のせめてもの優しさかもしれない。この絶望感や喪失感を全て背負って、手術に向かうつもりだ。沙希はゆっくり口を開いた。
「みんな、突然聞いて、ビックリしてでしょう。本当にごめんなさい。最後の最後まで、みんなのことを振り回してしまって。私、皆に出会えて、本当に良かった。この一年間、色々なことがあったけど、私の人生の中で、一番濃い一年になったわ。今まで歩んできた人生に後悔はない。」
沙希は明るく俺たちに言ったが、目からは一筋の涙が落ちている。天気雨みたいなその表情は、俺らを何とも言えない気持ちにさせる。
「沙希、絶対また、戻ってきてね!」
俺は叫んだ。涼介も華も。みんなの思いは一緒だ。
「ありがとう。そうだ、みんなに、渡したいものがあるの。」
沙希は、ベッドサイドのテーブルの引き出しを開けて、四通の手紙を取り出した。四角い封筒は封がされていない。それを一つ一つ、俺らに手渡した。
「これは華へ。華は少し無理をしちゃうところがあるわ。そこに気をつければ、きっと今よりもっと素敵な女性になれると思う。」
沙希は華に微笑む。
「これは涼介。これからも、華のことをよろしくね。華はこう見えて、結構繊細なの。涼介がフォローしてあげてね。」
沙希は涼介と握手した。
「それから、これはあっくんに。この病院を出てから読んでっ。ここで読まれたら、お別れが出来なくなっちゃうから。」
沙希は俺の胸元に押し付けるように渡した。
「あとね、あっくん、これ、璃子ちゃんにも渡しておいてくれる?」
「わかった・・・。」
手紙を全て渡し終えた頃、看護士さんが病室に入ってきた。二人でストレッチャーを押している。
「山村さん、お時間です。」
沙希はストレッチャーに乗り込む。沙希を乗せたストレッチャーと共に、俺たちは二階の手術室へと向かった。

ついに手術室の前に来た。沙希の表情は清々しい。すべて吹っ切れたような表情をしている。
「あっくん。」
沙希は俺の手を掴み、自分の元へと引き寄せた。最後に、俺の唇に軽くキスをした。
「元気でねっ。バイバイ。」
すごく小さな声だったが、俺にはそう聞こえた気がする。手術室のドアが開く。沙希を乗せたストレッチャーが、その中へと消えていった。重たい自動ドアが閉まって、ドアの上についている『手術中』のランプが点灯した。

俺は沙希からもらった手紙を開いた。そこにはミミズのような文字で書かれた文字が並んでいる。沙希はきっと、手が痛いのを我慢して、一生懸命にペンを走らせたのだろう。

あっくんへ

突然のお手紙、ごめんなさい。
そして、勝手にこんな選択をしてしまってごめんなさい。

私は、ある人と出会って、人生の潤いを教えてもらいました。
私は、ある人と出会って、燃えるような情熱を教えてもらいました。
私は、ある人と出会って、底のない悲しみを教えてもらいました。
私は、その人に言いたいです。
もし、私がいなくなっても、しばらくしたら私のことを忘れてください。
そして、普通に結婚をし、子どもを育て、素晴らしい人生を謳歌して欲しいです。
とはいうものの、一年に一度、満開の桜の木を見たときだけ、
私のことを思い出してくれたら嬉しいな。

私は、税理士になって、色々な人の役に立つことを夢見ていました。
でも、その夢を叶えることは難しそうです。
そこで、その人に、私の夢を託します。私の希望を託します。
去年試験に合格した後、親に頼んで税理士登録を進めてもらいました。
そして、無事に税理士登録ができました。
その税理士のバッジを、その人に託します。
私の代わりに、色々な人の役に立つような大人になってくれることが私の願いです。

最後にどうしても伝えたいことがあります。
私の頭の中では、その人のことを考えると、いつも小田和正の『あの曲』が流れます。
自分の言葉で伝えるのは、なんだか恥ずかしいので、
その曲のフレーズに代弁してもらうことにします。
『あなたに、会えて、本当に、良かった。嬉しくて、嬉しくて、言葉にできない。』

沙希より

封筒の中には、手紙に書いてある税理士バッジが入っている。俺はそれを手に取る。
「沙希、俺も沙希に出会えて本当に嬉しかった。」
俺の目から溢れる涙は、止まることを知らない。俺は天を見上げた。

「ありがとう。」


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