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「そこまでっ!ペンを置いてください。そこ!ペンを置いて!」
試験監督の怒号が響き渡る。『簿記論』は、今年も時間との勝負だった。一分一秒を争うこの試験は、試験の止めの合図のあとも、しばらくペンを走らせる音が響く。こうやって、与えられた時間で得点を削り取るように、積み重ねていくのである。まぁ、止めの合図の後でも、ペンを走らせ続けるのは、ルール違反だが。試験官が、答案用紙を回収していく。アルバイトだろうか。大学生くらいの若い女の子が手際よく答案を回収する。まだ着慣れてていないリクルートスーツが、若さを際立たせる。この回収の時間は、何もすることができないので、ただただ、その様子を観察するしかなかった。とりあえず、おっぱい診断を。ふむふむ、スーツの上からも胸の膨らみが確認できる。
「たぶんDカップはあるな。」
俺は暇なあまり、しょうもない独り言を呟く。答案の回収も終わり、教室から開放された。周りには、『簿記論』だけの受験で、今年の本試験が終わった開放感で満ち溢れている人もいる。両手を高く天に上げて伸びをしたり、答練らしきプリントをゴミ箱に豪快に捨てている人がいたり。色々な人がいて面白い。気持ちはすごく良くわかる。試験後の開放感は、異常に清々しい。試験が全部終わったときに、もし、可愛い女の子に声を掛けられたら、間違いなくホテルの部屋に誘うだろう。それくらい気分が浮かれるのだ。でも、俺は十五時半から『消費税法』が控えている。もたもたと、こんなところで時間を喰っている場合ではない。途中、コンビニで軽めの昼食を買い、ホテルの部屋へと戻った。俺は慣れたようにエントランスに入り、エレベーターで十階へ上がる。部屋の窓から、遅稲田大学の方を見ると、試験終わりの人たちの流れが、まだポツポツとある。俺は、その緩やかな川の流れを眺めながら、昼食を食べた。
「よし、始めるか!」
時刻は十二時半。『消費税法』の試験が始まるまで、あと、泣いても笑っても三時間だ。時間は皆平等にある。残り時間も平等だ。誰よりも密度の濃いラストスパートが掛けられるように、俺はデスクに向かった。試験当日に、何を解くか、何を見るかは、予め決めておいた方が絶対に良い。フワッとした感じで当日を迎えると、試験の緊張感や、ソワソワ感から、何を最後に勉強したら良いか混乱し、何も勉強が手につかなくなる。俺は、この時間は、理論を一周しようと決めていた。予め決めたことを、ただただ粛々とやるだけだ。
――14:45。
試験開始四十五分前。そろそろ教室も開く頃だろう。俺は教室に向かう準備をする。窓の外には、これから試験を受ける受験生の濁流のような流れが見える。
「ふぅ~。」
一度大きく深呼吸をした。そして、手を天井に届くくらいに思い切り伸ばし、全身の緊張を解くように伸びた。
「さて、行くか。」
俺は入り口に掛けたオフホワイトのローブを手に取り、部屋を出た。
「あっくん!」
ホテルのエントランスを出たら、そこには沙希がいた。沙希も俺と同じローブを着ている。
「沙希!」
「試験前に話したいと思って。そうすれば、少し緊張が解けるでしょっ。」
沙希も緊張している様子だ。それはそうか。沙希は官報リーチだ。今回『消費』に合格すれば、税理士試験の受験生生活は終わりだ。俺は、この時ばかりは、沙希の病気のことはすっかり忘れていた。俺は沙希に話したいことが山程あったが、それを遮るように、沙希は言う。
「あんまり時間ないね。行こっか。」
沙希が俺の手を引く。早足なところからも、緊張感が伝わってくる。
「沙希、体調はどう?」
ちょうど小隈軽信像の前に来たあたりで、俺は聞いた。
「うん、今日はなんだか調子が良いわ。せめて、今日だけは、体調のことを気にせずに過ごせたら良いわね。相変わらず、左目は半分見えないけど、試験に支障があるレベルじゃないから、大丈夫。」
「そっか、今まで、この日のために頑張ってきたもんね。特別措置の教室は、どっち?送っていくよ。」
「私はここを真っ直ぐ行った、あの建物みたい。ほら、あの本部があるところ。あっくんは?」
「俺は、この建物かな?」
銅像の左側に建つ、結構新しい感じの校舎を指差した。時計の針は、十五時を回っている。
「そっか、なら大丈夫。私、一人で行けるからっ。じゃぁ、お互い頑張ろうね!」
「うん、絶対に合格しよう!」
沙希はそう言うと、周りの視線を気にせず、少し背伸びをして、俺の唇に軽く自分の唇を当てた。思わず、俺の顔は赤くなった。舞台が暗転して、俺ら二人にスポットライトが当てられている気分だ。それに、小隈軽信にも見られている。
「この続きは、また試験が終わった後にねっ!」
無邪気な笑顔を浮かべながら、沙希は風のように走っていった。俺は人目をはばからず、沙希に向かって大きく手を振った。沙希が建物に入るのを確認したら、俺も校舎の中へと入った。
「ここだな。」
教室前の廊下は、テキストを広げる人や、音楽を聴いてる人など、各々思い思いの方法で、その時を待っている。これだけ人で溢れているのに、廊下は朝方の繁華街のように、静寂に包まれていた。俺は、教室に入り、自分の席に座った。バッグから、受験票、そして筆記用具と電卓を取り出す。受験票をセロテープで机に貼り付ける。こうすると試験中にズレないから、気にならない。電卓を左側にセットする。そして、ボールペンのインクが切れていないか確認して、マーカー類と一緒に電卓の横に置いた。
「ふぅ~。」
大きく息を吐く。もうすぐ試験が始まる。俺はタイマーを二時間にセットし、そっと目の前に置いた。戦闘体制は整った。
――15:28。
答案用紙と問題用紙が配られた。名前を記入し、もう一度裏返す。試験開始まで、あと二分。この二分が一年で一番緊張する。俺の手は、汗で少し濡れていた。これから、文字通り、手に汗握る戦いが始まろうとしている。
――15:29。
教壇の上に立つ試験監督が、鋭い視線で、自分の腕時計を見ている。右手には、その時を告げられるよう、マイクが握られている。俺は、右手の動きに注目する。その右手がゆっくりと動き、試験監督の声が教室全体に響き渡った。
――15:30。
「それでは試験を始めてください。試験時間は2時間です。」
その掛け声とともに皆一斉にペンを走らせる。俺はその音に一瞬怯んだが、後を追うように「カッカッカッ」とポールペンの先で紙をなぞった。
「・・・。」
試験監督は、注意事項など、まだ読み上げていたが、俺の耳には、その声は届かない。
二時間の死闘が、幕を開けた。
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