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「そろそろ、時間だね。」
俺は、時計を見ながら言った。
「そうね、行こっか。そうだ、これ着てこっと。」
「おぉ、良いね!」
リビングの端っこに掛けてあった、この前買ったローブを手に取り、嬉しそうに言った。なんだか遠くへ旅に出るような気分だ。
バスに乗って行って、一時間半ぐらいで病院に到着した。
「大きいね!大学病院ですごいな。」
俺は思わず声を上げた。今、中央記念病院の前に立っている。大学病院って、こんなに立派なのか。田舎から上京したおのぼりさんのように、目を輝かせる。
「ほら、行きましょ。」
沙希は、慣れたように入り口に入り、受付を済ませた。平日だというのに、患者で溢れかえっている。俺にとっては、新鮮な光景だった。
「こちらで少々お待ちください。」
女性の看護師さんに促され、待合室の席に座った。布張りの長椅子が、整然と並んでいる。そんな無機質な光景に、俺は緊張した。ふと横を見ると、沙希は、真剣な表情で一点を見つめていた。今、何を思い、その目に映るものは何か。森の中のような静寂が待合室全体を包んでいる。
「沙希、きっと大丈夫。俺もついてるから。」
「ありがとう。」
言葉少なだ。思い返せば、沙希が体調不良を訴えたのは、去年末。すでにその時から約三ヶ月半が経過している。この三ヶ月半、きっと辛かっただろう。原因も今日までほとんどわからず、もう結果は出ているのだろうが、沙希はそれを受け止められるだろうか。もちろん、異常がないに越したことはないが、俺は、何かあるんじゃないかと覚悟した。館内放送が流れた。診察室から、先生が放送しているものだ。
「山村さん、診察室一番へどうぞ。」
いよいよだ。沙希は覚悟したような表情で長椅子を立った。診察室のドアに手を掛ける。それは、大きな大きな羅生門のように俺と沙希の前に立ちはだかった。その重い扉を沙希が開ける。
「こんにちは。こちらへ。」
先生は、促すように、並べられた丸椅子に沙希と俺を座らせた。デスクには沙希のカルテらしきものが準備され、壁面にはレントゲン写真が3枚、キレイに並べられている。
「では、先日の検査の結果をお伝えします。」
先生は表情一つ変えずに、沙希と俺に話し始める。いよいよ本題に入るのだ。俺の心音が、診察室全体に響き渡った。きっと、沙希はもっとドキドキしているに違いない。
「結論から申し上げますと、先日お伝えした通り、山村さんの左眼には、悪性腫瘍、すなわちガンが見つかりました。」
この事実は、前回の時に、沙希から聞いてはいたが、いざ直接聞かされると、ショックが大きい。沙希大丈夫だろうか。俺は沙希の方を見る。沙希は覚悟したような表情で、一言一言、聞き漏らさないように真剣な表情で聞いていた。
「一般的に、眼のガンと言っても、眼の表面にできるもの、眼の神経にできるもの、眼底にできるもの、と多岐に渡ります。ただ、眼のガンというのは、肺ガンや胃ガンなどのガンと違い、国内でも症例が非常に少なく、まだまだ医療分野としては、発展途上の部分があります。山村さんの場合は、眼底の部分に腫瘍があるので、腫瘍摘出には、失明や眼球摘出などのリスクが伴います。そして、転移の可能性は、症例が少なくて、断言はできませんが、ガンの中では低い部類に入ると思われます。」
沙希は、しっかりとその耳で、先生の一言一句と向き合っていた。そして、静かに口を開いた。
「先生、それで、完治する可能性はあるんですか?」
「可能性は十分あると考えています。」
「私は、残り、どれくらい生きられるんでしょうか?死んでしまうんでしょうか?どうなんですか?」
核心を突く質問だ。先生と沙希は、まるで、ノーガードで殴り合いをしているようだ。先生は少し歯切れの悪い感じで応えた。
「山村さん、正直なところ、現時点で、治療方針は定まっておりません。先程も申し上げましたが、国内でも症例が非常に少ないからです。そのため、摘出手術をするか、放射線治療を進めるか、投薬治療その他の方法にするかは、一旦入院して頂いて、より詳細な検査をして、経過観察しながら決めていきたいと考えています。」
今の時代、こんなことってあるのだろうか。よくドラマなどで、千人に一人の難病とか言うけど、沙希もそれに当たってしまったのだろうか。だとしたら、なんで沙希なんだ。沙希は何も悪いことをしていない。これが運命なのだとしたら、この若さで、こういう選択を迫られるのは残酷だ。まだ、そうと決まったわけではないが、そういう可能性も十分あるということだろう。あぁ、なんで運命は残酷なのか。もし沙希が治るのであれば、俺の片目くらいくれてやる。
「先生、沙希に、俺の左目を移植とかできませんか?左目がだめなら右目でも良いです!とにかく、沙希が良くなれば、なんでも良いんです。どうか、どうかお願いします。沙希を治して下さい!お願いします!」
俺は取り乱してしまった。よっぽど、沙希の方が冷静だ。本当は、沙希の方が泣きたいくらいだろう。でも、俺は願った。祈った。沙希が普通の生活に戻れる日が来ることを。先生は、なだめるように優しく応えた。
「お気持ちはわかります。目には無数の神経が通っていて、今の医療では、移植は現実的ではありません。拒絶反応や、感染症のリスクの方が大きいです。ですので、先程申し上げた通り、入院して経過観察しながら、治療方針を固めていくのが一番現実的で、ベターな方法なのです。」
これ以上聞いても、答えは同じだろう。今の医療技術を以てしても、行く先はわからない。これは当事者にとっては、ある意味地獄だ。一年後の自分の姿を明確に思い描けないからだ。沙希は自分を納得させるように、先生に確認した。
「わかりました。入院は、いつからすればよろしいのですか?」
「そうですね、特に入院は今日明日の話ではありません。卒業式が終わってからでも良いでしょう。卒業式はいつですか?」
「三月二十日です。」
「では、入院はその翌月曜日の三月二十二日からにしましょうか。病院でも受け入れ準備を進めておきます。」
どんどん話が進んでいくが、俺はその流れに乗り切れない。いつの間にか、話しが遠くの方に行ってしまっているような感覚だ。
「よろしくお願いします。」
沙希は、先生に言った。言いたいことは、きっと沢山あるだろう。本人が一番ショックなはずだ。後で、全て受け止めてやる。二人で涙が枯れるまで、泣こうじゃないか。
病院を出ると、空は青く晴れ渡っている。俺と沙希は、駅を目指して歩く。
「あっくん、こんな私で、ごめんね。」
「なんで謝るの?謝ることなんて一つもないよ。一番ショックなのは、きっと沙希なんだから。こっちこそ、一緒にいてあげることしか出来なくって、ごめん。」
俺は、自分がただ隣にいることしか出来なくて、悔しかった。
「私が、こんなんじゃなかったら。私が、こんなんじゃなかったら、もっと色々なことが出来たのに。あっくん、ごめんね。」
沙希は、その目に涙を溜めながら、俺の胸に飛び込んだ。
「そんなことないよ。俺は今、幸せだよ。それに、病気が良くなってから、色々なところに行けば良いんだよ。だから、約束してほしい。どんなことがあっても、完治するのを諦めないってことを。それまで、ずっと沙希を支えるから。ずっと、そばにいるから。」
俺の涙につられて、沙希の目から、ダムが決壊したように涙が溢れ出した。
「ありがとう。」
沙希はこれ以上の言葉を発することが出来なかった。俺は優しく受け止める。きっと大丈夫だ。すべてが良い方向に行くだろう。俺も自分自身に言い聞かせるように、心の中で連呼した。
「・・・。」
少ししたら、お互いに落ち着きを取り戻した。というよりも、涙枯れ果てて、現実に引き戻されたというべきか。お揃いで来ているオフホワイトのローブは、涙色に染まった。
「あっくん、みんなには、私から直接言うね。」
沙希は決意をした表情でスマホを見ていた。
「うん。わかった。」
俺に止める理由はない。沙希が決めたことなのだ。それに、いずれわかることだろう。本人の口から、この事実を初めて聞いたとき、みんなは何を思うだろうか。
「みんなに直接話したいことがあるから、金時会の総会を開きます。笑 今度の講義後、みんなでランチしない?」
沙希から軽い感じで、金時会のグループLINEにメッセージが来る。正しくは、軽い感じを装っている。俺は真っ先に返信した。
「何もないから大丈夫!」
今、俺は、沙希の隣にいる。この構図が面白かったのか、沙希に笑顔が戻った。
「俺も大丈夫!話ってなんだろう?」
涼介からだ。
「私もOK!総会って。笑」
華からもすぐに返信が来た。
「みんなありがとう!じゃぁ、今度の講義の後に。」
――翌日曜日。
沙希、涼介、華、そして俺は、沙希があらかじめ予約していた飲食店の個室にいる。涼介と華は、今は何も知らない。これを聞いたらどんな表情をするのだろうか。そして、沙希になんと声を掛けるのだろうか。俺は、これを聞いたとき、沙希のそばにいることしか出来なかった。何て声を掛けてあげたら良かったのか、いまだに正解は見つからない。一応、俺も、今日初めて聞いた体で行こうと思っている。みんな席に着いたところで、間髪入れずに、沙希は切り出した。
「今日はみんな集まってくれてありがとう。大事な話があって。」
「なになに?就職して地方に行かなきゃいけなくなったとか?」
華は沙希に聞いた。まぁ、普通の反応だろう。そんな無邪気な質問をしている華は、十五分後にはどうなっているのだろうか。
「年明けから、私、体調が悪くて、講義を休んだ日もあったでしょう。あれはね、ちょっと目の調子が悪くて。」
「勉強のし過ぎで視力がかなり落ちたとか?」
今度は涼介が少し冗談交じりで言った。沙希は見兼ねたのか、ゆっくりと口を開いた。
「単刀直入にいうね。びっくりしないで。」
みんな沙希に注目する。
「私・・・ガンなの。」
ほんの一瞬だったが、嵐が通り過ぎた後のような静けさが、俺らを包んだ。
「えっ?」
「はぇっ?」
「ふぁっ?」
みんな目を大きく見開き、口は空いたままだ。華は状況が呑み込めないのか、その目には涙を溜め始めている。沙希の目には一点の曇りもなかった。真剣に、そして、誤解のないように、丁寧に説明した。
「この前、中央記念病院で検査を受けて、その結果を聞いてきてね。目のガンっていう言うのはね、珍しいものなんだって。直接命に関わるものではないらしいんだけど、治療方針が決められないらしくて、再来週くらいから入院することになったの。卒業式の後にね。」
涼介と華の口は、まだ空いている。沙希は続けた。
「会計事務所での仕事は休職しちゃったけど、今年の税理士試験は諦めない。だって、官報リーチだもん。病気になんて負けてられない。こんなんで邪魔はされたくないわ。」
沙希は、悔しそうに、目に涙を浮かべる。
「沙希は、大丈夫なの?」
華は遮るように沙希に抱き着いた。そして、沙希の胸に埋まって大粒の涙をこぼした。涼介は、必死で泣くまいと耐えているようだ。俺はその様子を見て、また泣いている。泣いたっていいのだ。悲しいことだ。悔しいことだ。あぁ、泣いても泣いても、この気持ちは浄化されない。
「俺たちに何かできることがあったら、言って欲しい。出来る限り、何でもするから!」
涼介は力強く言う。
「ありがとう。みんな、ありがとね。いきなりこんな話をしちゃって、ごめんなさい。さぁ、話しも終わったことだし、なんか頼もう、頼もう!」
沙希は必死に、話を変えようとした。その様子を見ていて、ますます胸が苦しくなる。その後、食事中もどんよりした雰囲気が漂っていた。
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